10がつ30にち、ふらんすの人類学者で、レヴィ=ストロースゆうおじぃが、きょうねん100さいで大往生しはりました。にんげんのがく者で、ぬー界をはじめ、けだもん世界でもひょうばんが高かったお人や。お若い学生さんら、「自由な知性」とゆうもんが何をいみするか知りたかったら、このお方の『悲しき熱帯』ゆうご本を読まはったらよろし。にんげんがこの数世紀、「近代化」ちゅうめいもくで世界をむちゃくちゃにしてきたこと、それだけやのおて、そのむちゃくちゃになった状況を世界の「デフォルト」やと勘違いしとること、それがそもそも間違いのもとやでて、訴えてきゃはったひとや。ぶんめい人は「土じん」ばかにするけど、「土じん」の文化のほうが、よっぽどクールで洗練されとって、それに比べて近代文明ちゅうもんは、威勢はよろしいけど、まだ出来たての野蛮なもんやゆうことを、見抜いたはった。けだもん世界では、まぁこんなこと常識やけど、にんげんでありながら、これだけの洞察もってるお方は、めったにいてまへん。そないにえらいお方やのに、日本では訃報があんまり話題になれへんのは、なんでやろかね。たぶん、「くん章」やら「のーべる賞」たらゆうもんを、もろたはらへんさかいやろか。
にんげんのおかたらは、なんかゆうたら、ほうびを、もろたりあげたりすんのんが、ほんま、お好きやねぇ。
秋もだんだん、ふかまってまいりましたけど、みなさん、きげんよう、くらしたはりますか? インフルエンザはもちろんですけど、かぜも流行ってるみたいやさかい、きぃつけとくなはれや。
「なんてったってアイドル」 その14 「アイドルと声」
IAMASメールマガジン「月刊ヌートリア通信[nutria news]」2009.10.23
先月はうちとしたことが大事な原稿おとしてしもて、すんまへんどした。 「ぬー通」へんしゅうぶにも、まい月たのしみにしてくれてはったおかたらにも、ごしんぱいおかけしました。ほんで今月は「アイドルの声」ゆうテーマで書いてみんかて、編集長のふくもりさんからのご依頼や。ぬーもひとの子、そこまで言われて、ことわれる義理はおへん。
「アイドル」ゆうたらとかくヴィジュアル面ばっかりに目がいきますけど、「声」、たしかに重要なテーマやね。アニメの声優はんの声、聞いただけで萌えますわ。パブロフの犬ちゅうやつやね。毛ぇ剃った自分の身体にマンガ書いてもろて「アートアイドル」たらゆうたはる若いおなごも「声ちゃん」ていわはります。ほんまにエロいのは映像やのおて「声」や、ゆうことかもしれへんね。それは、なんでやろか。
「声」はまぁ、べつに人間だけのもんやあらへんし。うちらけだもんにも、鳴き声ゆうもんがあります。それに対して、ふつう人間の声は、ことばをしゃべるために活用されとる。そやけど言語情報伝達するだけやったら、別に声で言わんでも、他にも手段はありますわな。それをわざわざ声出すのんは、「声」には、ことば以外の身体情報が満載されとるからや。ルソーの『言語起源論』を読むまでもなく、「声」ゆうんは、言語のヴィークルのようであって、実はけだもんと人間とを結びける特異点や。
けだもんはしゃべらへんのに、にんげんは、けだもんがしゃべるて想像するんが大好きや。ほんらいしゃべるわけのないもんが、しゃべる、ゆうことが「声」ちゅう経験の、原初的なかたちなんかもしれん。うちがしゃべってることの不可解は、まあ置いとくとして、いろんな神話を読むと、どうぶつはもちろん、むかしは神さんが、ちょくちょく人間にしゃべりかけたはった。ゆうてもだいたい言わはることは「おい、おまはんらええ加減にしいや」みたいなことやけどね。ソクラテスたらゆうおじんも、なんかしたろか思たら「やめとき」ゆうて頭の中にデーモンの声がした。なんや、アブナいことですわな。そやけど、ここがだいじなとこや。
アイドルの声も、この「アブナさ」がなくなったら、「いらっしゃいませこんにちわー」ゆうたはる、コンビニのねぇちゃんの声とおんなじですわ。声にはそもそも「霊」的なもんがあるんです。何ゆうてるか分からへんてか。そうゆうお人は、たとえば宇多田ヒカルの声をよう聞いてみなはれ。「十五、一六、十七と、あたしの人生暗かった~」ちゅう、おかんの生き霊みたいな声が、かすかに響いてまっせ。ああーこわやのこわやの。そやけどそれがあるさかい、ヒカル、ごっつ好きなんや。
朝晩涼しなってきた、今日このごろでおます。インフルエンザも騒がれてますけど、みなさん、お元気でいたはりますか?
にんげんのお方ら拝見してまして、まことに奇妙やなぁといつも思いますのんは、思たはることと言わはることとが、しばしば正反対ゆうことや。「ほんね」と「たてまえ」ゆうたら、それまでのことですけど、ほんまはもうちょっと複雑で、ずうっと「たてまえ」いい続けてたら、いつしかそれが「ほんね」になってしもて、自分でも区別がつかんようになる、ゆうことがおますのや。京都ちゅうのは、そうゆう街や。この、まさに「区別つかん」ゆう状態、〈決定不能性〉ゆうもんが、京都の強みですわ。
「平和」ゆうことばを聞くたびに、思い出すのんは、上方漫才史上に残る、この言葉ですわ。
くがつのおわりは、こんなうちでもなんやらいそがしゅうて、IAMASメールマガジン「ぬーとりあ通信」のれんさいも、いっかいおやすみさせてもらいました。ふくもりさん、ごしんぱいおかけしまして、かんにんどした。
きょうは、のりぴーのきしゃかいけんみててかわいそで、しっかりしいや、とおもいました。こないだの、うちのはつげん、いろいろ、いわはるひともいてたけど、「のりぴーはわるない」ゆうのんは、うちはぜったいに、てっかいしまへんで。そら、かくせいざいは、ほうりついはんや。そやけど、べつにそれで、ひとにけがさしたわけでもなし。しゃかいてきに、えいきょうりょくあるたれんとやから、いっぱんじんとはちがう、ゆうひともあるけど、「しゃかいてきえいきょうりょく」ちゅうのんは、めでぃあやらかいしゃやらが、りようして、そんだけもうけてきよった、ゆうことや。のりぴーはわるない。わるいんは、あのちゃらいじゃんきーのだんなや。